2022年6月19日日曜日

ゲルマン人の大移動とローマ帝国の衰亡(1)


アッティラ王と「ニーベルンゲンの歌」  


「ニーベルンゲンの歌」は名高い中世ドイツの英雄叙事詩ですが、伝説ですから登場する歴史上の人物は実際には時代が重なっていないことがあります。フン族のアッティラ王はゲルマン民族に脅威をあたえて民族大移動のきっかけになる人物なのですが、この叙事詩のなかでは東ゴート族のテオドリック大王がアッティラ王の宮廷に客人として滞在していて、アッティラの敵たちを単身その豪腕でなぎ倒す大活躍をすることになっています。ところが実際には、テオドリックの生まれた年はちょうどアッティラ王の死んだ西暦453年の翌454年なのです。



フン族はアッティラ王の死後しだいにおとろえ滅亡しました。


フンの衰亡はアッティラの死後さ(453)。




アッティラ王は死の前年(452)イタリアに侵入して荒らしますが、時のローマ教皇レオ1世の説得を受けてひきあげています。このエピソードがローマのバチカン宮殿にあるラファエロ作の有名な壁画連作のなかで描かれています。これを描かせたのは時の教皇でメディチ家出身のレオ10世で、自分自身の風貌をレオ1世として描き込ませていると言われています。剣を手にした聖ペテロと聖パウロが出現する奇跡によってアッティラがローマへの侵攻を思いとどまったという伝説が主題になっています。


ペテロとパウロはどちらもPがつく聖人ですが、聖ペテロはキリストから「天国の鍵」を与えられた初代のローマ教皇であるとカトリック教会では考えられており、この絵でもそうですが鍵を手にしている姿でよく描かれます。ローマの名高いサン・ピエトロ(聖ペトロのイタリア語)大聖堂はペテロの墓の上に建てられていると言われていおり、この壁画はサン・ピエトロ大聖堂に隣接したバチカン宮殿にある当時の教皇の居室の壁に描かれています。


    「レオ1世とアッティラの会見」(1513-14) ラファエロ作






カタラウヌムの戦い



この出来事の前年(451)にあったのが、カタラウヌムの戦いです(「語らぬ有無」ではありません。ウとヌを入れ替えてください)。ゲルマン人の西ゴート族は前世紀にフン族から逃れてローマに保護を求めて移動してきており、侮蔑的な待遇に怒り反乱を起こし皇帝を殺害したり、帝国が東西に分裂してからはローマの都を荒らしたりもしましたが、このころまでにガリアからイベリア半島にかけて西ゴート王国を建国していました。そしてフン族が追ってきたので、西ローマ帝国と協力してフン族と戦います(西+西ですね)。高校世界史ではこの戦いでフン族を止めた重要な出来事となっていますが、じっさいはこの戦いの翌年にはイタリアにフンは侵入しているわけです。


絵に描かれた伝説では使徒の霊が現れてアッティラが恐れたことになっていますが、前年の決戦に敗れすでに弱っていたとはいえ、説得して追い返したということのほうが凄く感じられます。アッティラはローマへの侵攻を思いとどまりましたが、フン族によって追い立てられてやってきたゲルマン民族のいくつかはローマを荒らしました。それはアッティラがレオと会談して引き返した3年あと455年のヴァンダル族(サンダル族ではありません)と、410年の西ゴート族でした。アッティラはローマ略奪のあと西ゴート族の王アラリクスが急死したことを迷信的に恐れたのではないかとも言われているようですが、アッティラはローマ侵攻をとりやめたにもかかわらずイタリア侵入の翌年には亡くなっています。西ゴートはゲルマン民族の大移動の最初です。375年に移動を開始しますが、これは高校世界史で大事な年号になっています(皆GO!)。これはローマ帝国が東西に分裂する395年の20年前です。


ローマは錯誤(395)で分裂する。



375 西ゴート族、フン族の圧迫を逃れ南下を開始

   (ゲルマン民族の大移動のはじまり)

395 ローマ帝国、東西に分裂

410 西ゴート族、南下しローマに侵入、略奪を行う


451 カタラウヌムの戦い、西ローマ、西ゴート族と協力しフン族のアッティラ王を破る

452 アッティラ、教皇レオ1世に説得されイタリアを去る

453 アッティラ、急死


455 ヴァンダル族、アフリカから北上、ローマを略奪




5分でわかる!西ローマ帝国の命運(家庭教師のトライ)


2018年12月20日木曜日

フランチェスコ・グッチーニ






 ロベルト・ベッキオーニさんとフランチェスコ・グッチーニ(右)





今回は前回のフランチェスコ・デ・グレゴリに続いてもうひとりのフランチェスコさんについて書こうと思います。このまえ大家さんのところで聴いたロベルト・ヴェッキオーニという歌手のことを書きましたが、そこで扱った曲「Ti insegnerò a volare」(飛ぶことを教えよう)という曲は、ヴェッキオーニさんが引退していたもうひとりの歌手フランチェスコ・グッチーニさんを引っ張り出してきて一緒に歌った曲でした。


ですから私が最初にグッチーニさんの顔写真を見たのは、お年を召した最近のものでした。ところが、私がすでに動画サイトで聴いていた歌声は昔のもので、とても若々しいものでした。歌の調子も青春らしいもので、ある種の開き直り、希望と絶望のあいまの自分自身を肯定しているような感じを受けました。なかでもとくに気に入っていた一曲をとりあげてみたいと思います。


この曲は、ベルトンチェッリという当時の音楽評論家によるグッチーニへのきびしい批評に対する返答として、コンサート用の曲としてつくられたそうです。その後グッチーニはこの批評家を自宅にまねいて、「対決」が行われました。歌手と批評家のこの対決は、70年代という時代を考慮しなければ理解できないと指摘されています。のちにベルトンチェッリは、「アーティストに対してどうすべきか、それどころか、どう生きるべきかを教えてやろうなどというのは、あの時代の悪癖であった。私はみごとにそれにはまってしまっていたし、レーニン主義の紅衛兵*の情熱でそうしたものだ。」と書いて、グッチーニを酷評したことを悔悟したそうです。


つまり、レコードを売るようになって「ブルジョア(資本家、金持ち)になった」アーティストは、当時先鋭的な人々によって正しいとされた共産主義を信奉する人々によって攻撃されたというのです。「資本主義の犬め!」というわけですね。それに対して、グッチーニは自分は楽しみのために歌っているのであって、レコードなどは買ってくれなくても結構だし、あんたらの思想の歌い手になる気はない、というようなことを歌で返したのです。この歌の詩にベルトンチェッリの名前が書き込まれています。彼はグッチーニに会ったときに自分の名前を歌詞から削るようにと言いましたが、断られたため、今にいたるまで歌のなかにのこっているわけです。






アルバム「Via Paolo Fabbri 43」から 'L'avvelenata'



L'avvelenata 怒りの歌



そりゃ、まちがいを犯したのは認めるよ
『磔の刑』だのなんだのは受け入れるさ

父さんは、年金が大事なものだと言ってたが
結局のところ、それは正しかったとも言える

かあさんは学士号は歌手をやるより大事だと
言ってたけど、それもまちがいじゃなかった

若くて初心だったから、冷静さなんか失ってしまった
読んだ本のせいかもしれないし、偏狭だったのかもしれない

最悪の気分と、出世欲への非難、政治的無関心の恐れ
それだけが僕に残されたものだ


君ら批評家、いかめしい人々、厳格な活動家の諸君、
どうか許してくれたまえ

でも僕は歌で革命ができるとか、詩をつくれると言った覚えはない
僕は歌えるときに、歌いたいときに歌うだけで、拍手も嘲弄もいらない

売れるかどうかは僕の心配ごとのうちに入らない
レコードなんか買わないで、僕につばでもはきかけたらいい

一体何のために、ここでこうやってわざわざ歌ってると思う?
酔っ払ったり、オナニーしたり、少なくとも、セックスでもしたほうがずっと楽しい

機嫌のわるいときには自分らの惨めさを掘り下げて、歌を書く
ふだんは、もっとまじめなやることがある
瓦礫のうえで土工をやったり、自分の暮らしを立てることだ


(やつらに言わせると)
僕は、すべて、ゼロ、クソ野郎、酔っぱらい、詩人、ピエロ、
無政府主義者、ファシスト、金持ち、貧乏人、過激派、
変わりもの、一般人、黒人、ユダヤ人、共産主義者!

僕は、ホモ、歌でひっかけるナンパ師、嘘つき、正直者、天才、アホ、
僕は朝四時たったひとりここにいて、あるのは
不安な気持ちとワインと、神をののしる言葉を吐きたい欲望だけ

一体どういう理由で、酔狂な誰彼の話を聞かなきゃならないんだ?
医者は「あなたは鬱だ」とか言うけど、当たり前だろ
便所のなかにいても自分の時間がないんだから

いくらかの韻を使えるかどうかなんて
ゲームにすぎないとずっと言ってきたけど
しかしその遊びももうだいぶ重い暗い感じになった
おれの尻を買ってくれ、安くしとくから


同僚のシンガーソングライターたちよ、
何百万かで夜に自分を売る選ばれた者たち

有能な君らのポケットが一杯なのはいいことだ
根性だけ持ってても仕方がないさ。何を言ってあげられるかな?

行って歌えばいいのさ。知っての通り、
どっちにしても、しくじったミュージシャン、
信心屋、理論家、ベルトンチェッリ、お坊さん、
あいつらがいつでもそこにいて、くだらんことをぬかすのさ

もしこういうことを前からわかっていたとしても、
理由や動機を考えると、やっぱり同じようにすると思う

僕は歌をつくったりワインを飲むのが好きだし
大騒ぎするのも好きで、生まれつきバカなんだ

だから僕はこのまま続けるし、
やり方を変えるつもりはない

まだまだ聞きたいやつには、語ることが沢山ある
そのほかのことは、くそでもくらえってことだ!



L’Avvelenata


Ma se io avessi previsto tutto questo, dati causa e pretesto, le attuali conclusioni,
credete che per questi quattro soldi, questa gloria da stronzi, avrei scritto canzoni?

Vabbè, lo ammetto che mi son sbagliato e accetto il Crucifige e così sia.
Chiedo tempo, son della razza mia, per quanto grande sia, il primo che ha studiato.

Mio padre in fondo aveva anche ragione a dir che la pensione è davvero importante.
Mia madre non aveva poi sbagliato a dir che un laureato conta più di un cantante.

Giovane ingenuo, io ho perso la testa, sian stati i libri o il mio provincialismo,
e un cazzo in culo e accuse di arrivismo, dubbi di qualunquismo son quello che mi resta.


Voi critici, voi personaggi austeri, militanti severi chiedo scusa a Vossia.
Però non ho mai detto che a canzoni si fan rivoluzioni, si possa far poesia.

Io canto quando posso, come posso, quando ne ho voglia, senza applausi o fischi,
vendere o no non passa fra i miei rischi: non comprate i miei dischi e sputatemi addosso.

Secondo voi ma a me cosa mi frega di assumermi la bega di star quassù a cantare?
Godo molto di più nell'ubriacarmi oppure a masturbarmi o, al limite, a scopare.

Se son d'umore nero allora scrivo frugando dentro alle nostre miserie;
di solito ho da far cose più serie: costruir su macerie o mantenermi vivo.


Io tutti, io niente, io stronzo, io ubriacone, io poeta, io buffone, io anarchico, io fascista,
io ricco, io senza soldi, io radicale, io diverso ed io uguale, negro, ebreo, comunista!

Io frocio, io perché canto so imbarcare, io falso, io vero, io genio, io cretino,
io solo qui alle quattro del mattino, l'angoscia e un po' di vino, voglia di bestemmiare.

Secondo voi ma chi me lo fa fare di stare ad ascoltare chiunque ha un tiramento.
Ovvio, il medico dice: "sei depresso": nemmeno dentro al cesso possiedo un mio momento.

Ed io che ho sempre detto che era un gioco sapere usare o no d'un certo metro,
compagni, il gioco si fa peso e tetro: comprate il mio didietro, io lo vendo per poco.


Colleghi cantautori, eletta schiera che si vende alla sera per un po' di milioni:
voi che siete capaci fate bene aver le tasche piene e non solo i coglioni.

Che cosa posso dirvi? Andate e fate. Tanto ci sarà sempre, lo sapete,
un musico fallito, un pio, un teorete, un Bertoncelli o un prete a sparare cazzate.

Ma se io avessi previsto tutto questo, dati causa e pretesto, forse farei lo stesso.
Mi piace far canzoni e bere vino, mi piace far casino e poi sono nato fesso.

E quindi tiro avanti e non mi svesto dei panni che son solito portare.
Ho tante cose ancora da raccontare, per chi vuole ascoltare, e a culo tutto il resto!




翻訳 ITALOGOS


*紅衛兵 毛沢東を支持し文化大革命の担い手となった学生たち。このアルバムの発表される10年前の1966年につくられた組織でした。ちなみにアルバム発表の76年は毛沢東が亡くなり、文化大革命がおわった年でした。



           



付録・歴史覚書


1976年

・前年に終結したベトナム戦争の結果、やぶれたベトナム共和国(南ベトナム)が1976年、ベトナム民主共和国(北ベトナム)に統合され、現在のベトナム社会主義共和国が成立しました。

第一次天安門事件。76年4月5日、前日天安門前で周恩来首相を追悼してかかげられた花輪を当局が撤去したことに市民が抗議し、騒乱となりました。党中央により事件の黒幕とされた鄧小平は失脚しました。この年9月毛沢東が亡くなり、翌10月には北京政変がおこり、毛沢東夫人江青を中心として毛沢東体制をひきつぐ動きを示していた「四人組」が逮捕されました。のちに第一次天安門事件は革命的行動とよばれて評価が逆転し、1919年の抗日政治運動、五・四運動になぞらえ「四・五運動」とも呼ばれるようになりました。



           



https://significatotestocanzone.blogspot.com/2015/03/lavvelenata-francesco-guccini.html
https://www.fabiosroom.eu/it/canzoni/l-avvelenata/

2018年12月7日金曜日

フランチェスコ・デ・グレゴリ リンメル






最近イタリアの昔のシンガーソングライターの歌をすこし聞いています。


フランチェスコ・デ・グレゴリはイタリア歌謡界の大御所のひとりです。1975年のアルバム「リンメル」で最初の成功をおさめました。紹介するのはこのアルバムからの同名の曲です。リンメルとは化粧品のブランドで、ここでは表面を飾る偽りの象徴として用いられているそうです。歌詞のなかでも、「エースのフォーカードはおみごとだけど、全部おなじ色じゃばれるよ」というように、恋愛をゲームとして遊んでいることに対する風刺的な言い方がされています。イタリアの歌謡曲では、かれが一番最初に決まり文句をはずれた、現実に取材し、多義的で曖昧さをもつ歌詞を歌った歌手であると言われています。


皮肉な内容ではあるものの、響きに温かい味わいがあって好きな曲です。





アルバム「リンメル」は全曲をユーチューブの公式アカウントで聴くことができます。




リンメル


1.


そして、いくらかのものは残る
明るく、そして暗い、
思い出のページの中から

僕は君の名前を、表紙から消し去る
ごちゃまぜになってわからなくなる
僕のいいわけと、君の言い分

占い師は僕を勝利者と呼んだ
でもそれは、ジプシーのペテンだった

厚かましい運命のやつめ
もし僕がもっと若かったなら
想像のちからで たたきこわしてやったのに
想像のちからで ひきさいてやったのに




君の唇のスタンプはもう、ほかの住所に送っていいよ
僕の顔もべつのどの顔と、交換したってかまわない

エースのフォーカードを使うのはいいけど、おなじ色じゃだめだよ
かくしておくのも出して使うのも、好きにすればいいけど
僕らみたいにいい友達にして、残しておいてもいいんじゃないか


2.


あとには神聖不可侵な、生き続ける意思だけが残る
そしてリンメルの化粧品をつけた、優美な愛の女神ヴィーナスが

そとに雨がふっていたあのとき、君がこう聞いたときのようにー
微笑みながら何も見ていない、君のあの写真を僕がまだ持っているかと

風は君の毛皮につつまれた首筋と、
君の心のうえを吹きすぎて行った

なにもわからずに「うん」と答えた僕に
君は「それがあなたに残していくすべて」
そうだね、それが僕に残されたすべてだ


※くりかえし



Rimmel


E qualcosa rimane
Fra le pagine chiare e le pagine scure
E cancello il tuo nome dalla mia facciata
E confondo i miei alibi e le tue ragioni
I miei alibi e le tue ragioni
Chi mi ha fatto le carte mi ha chiamato vincente
Ma uno zingaro è un trucco
E un futuro invadente, fossi stato un po' più giovane
L'avrei distrutto con la fantasia
L'avrei stracciato con la fantasia


Ora le tue labbra puoi spedirle a un indirizzo nuovo
E la mia faccia sovrapporla a quella di chissà chi altro ancora
I tuoi quattro assi, bada bene, di un colore solo
Li puoi nascondere o giocare come vuoi
O farli rimanere buoni amici come noi


Santa voglia di vivere e dolce Venere di Rimmel
Come quando fuori pioveva e tu mi domandavi
Se per caso avevo ancora quella foto
In cui tu sorridevi e non guardavi
Ed il vento passava sul tuo collo di pelliccia
E sulla tua persona e quando io
Senza capire, ho detto sì
Hai detto "È tutto quel che hai di me"
È tutto quel che ho di te


Ora le tue labbra puoi spedirle a un indirizzo nuovo
E la mia faccia sovrapporla a quella di chissà chi altro ancora
I tuoi quattro assi, bada bene, di un colore solo
Li puoi nascondere o giocare come vuoi
O farli rimanere buoni amici come noi



翻訳 ITALOGOS



                            


付録・歴史覚書


1975年

・ウォーターゲート事件のために前年辞任したニクソンにかわって就任したフォード大統領時代の1975年、北ベトナム軍によるサイゴン陥落をもってベトナム戦争終結。68年のテト攻勢で劣勢に立たされ、さらに世界的反ベトナム戦争の世論に押されて、時のジョンソン大統領は大統領選への再選出馬を断念。米軍は69年新大統領ニクソンによりベトナムからの撤兵を開始し、73年までに完全に撤退を終えており、実質的に米軍の敗北となりました。

・1964年から11年続いた独立戦争を経て、ポルトガルから独立してモザンビーク共和国が誕生しました。しかしその後モザンビークは内戦に突入していきます。モザンビークはアフリカ南東部湾岸でマダガスカル島を東にのぞむ位置にあります。

・イギリスで初の女性首相マーガレット・サッチャーが誕生しました(「サッチャー」のサはThでSではありません。保守党所属。)ふたり目の女性首相が2018年現在のテリーザ・メイ首相でおなじく保守党員です。

・ポップミュージックではイギリスのバンド、クィーンのアルバム「オペラ座の夜」が発売され、個性的名曲「ボヘミアン・ラプソディー」がヒットしました。

・映画ではスピルバーグ監督の「ジョーズ」が北米で成功。日本では年末に公開され翌年人気を集めました。

2018年12月6日木曜日

イタリアのシンガー・ソング・ライター文化とロボットアニメ

 




ゴールドレイク


クリスマスの雰囲気になってきたこのごろのある夕べ、大家さんのうちに立ち寄ると、イタリアのシンガー・ソングライターらしい音楽がかかっていたので、誰なのかきいてみました。じつは最近このジャンルのものをすこし聴いて好きになってきていたのでした。すると60年代末から活動しているロベルト・ヴェッキオーニという歌手で、最近出た新しいディスクだということでした。しらべてみると、現在かれは75歳です。

そのなかで大家さんの奥さんが、これはいい歌だといってかけた曲の歌詞のなかに、「ゴールドレイク」ということばが出てきたのに気がつきました。歌詞カードをみるとやはりそう書いてあります。


Vi chiedo solo di non far rumore
vi prego se potete fate piano
l'ho appena messo a letto che rideva
col suo Goldrake in mano


静かにしてくれませんか

どうか音をたてないで下さい
ゴールドレイクを抱いて
微笑んでいるあの子を
寝かしつけたばかりなのです


「ゴールドレイク」という名前は前にイタリア人に言われて知っていました。イタリアで有名な日本のロボットアニメの名前だというので調べてみると、永井豪の原作で日本でのタイトルは「UFOロボ・グレンダイザー」というのですが、どちらにしても私は知りませんでした。グレンダイザーは70年代のいわゆる「スーパーロボット」アニメのひとつなのですが、私は「ガンダム」以降の「リアルロボット」の世代で、おなじく永井豪の「マジンガーZ」の名前くらいは知っているものの、そのほかは知らないか、薄くおぼろげなも記憶しか持っていません。

イタリアをふくむヨーロッパやそのほかの外国では、おもに「スーパーロボット」のほうが大きな人気を獲得したようです。このジャンルでは外国人が愛着を示してくれている動画がたくさん出回っています。











ジュリオ・レジェーニ殺害事件とエジプト革命








さてこの歌は「ジュリオ」というタイトルで、ジュリオ・レジェーニという方の母親に捧げられた歌です。レジェーニさんは2016年に当時28歳で英国ケンブリッジ大学の博士課程にあった学生だったのですが、エジプトの労働組合をテーマにした博士論文の執筆のためにカイロに滞在中、行方不明となり数日後に路上で遺体となって見つかったのでした。


日本で東日本大震災のあった2011年、その前年からチュニジアではじまった「ジャスミン革命」に端を発して北アフリカでひろがった「アラブの春」の一環として、エジプト革命がおこりました。この革命で、1981年から30年間大統領の座にあったムバラクが退任して、選挙で「ムスリム同胞団」に属するモルシが大統領に就任しました。ところがモルシもまた強引な手法で反感をあつめ、就任から一年の2013年に民衆デモが発生したのに呼応して国軍が介入、クーデタによって軍事政権が樹立されました。軍事政権は「ムスリム同胞団」をテロ組織に指定し非合法化、弾圧を開始しました。


モルシのもとで国防大臣であったシシがクーデタの首謀者であり、14年の選挙で新大統領となり今日に至ります。シシ政権下では言論の弾圧がおこなわれ、人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、一日に平均3,4人が政府指揮下の治安部隊によって自宅から拉致されているといいます。1000人以上が殺害され、4万人が投獄されたとみられています。たとえば、抗議活動に従事したうたがいで14歳の少年が当局によって拉致され、性的暴行や電気ショックをふくむ拷問を受けたと言われています。


このような状況下で、ジュリオ・レジェーニさんはカイロの近郊の道端で死体となって発見されたのでした。死体には拷問のあとがのこり、下半身の衣服はなかったといいます。イタリア政府は殺害犯のすみやかな逮捕を強硬に要求し、エジプト内務省は捜査を行いましたが、いまだに真相が解明されてはおらず、政府関係者の関与をイタリア側がうたがいエジプト側が否定するなかで、両国間の外交的な摩擦が続いています。


このような深刻なテーマが歌われていたわけですが、被害者の母親にささげられたこの歌のなかで、ジュリオさんが子供として語られ、その腕のなかには「グレンダイザーがだいじに抱かれていた」というふうに描かれているわけです。88年生まれのジュリオさんがじっさいに「ゴールドレイク」の世代だったのかはよくわかりません(イタリアでは日本から3年おくれて1978年から放映され、このとしのイタリアのシングル売上の一位はイタリア語版の主題歌だったそうです)。しかしイタリアの子供が抱いて寝るおもちゃのうち典型的なものとして、この日本のアニメが選ばれているということには感慨深いものがあります。



ロベルト・ヴェッキオーニ






イタリアでは60年代から80年代までに多くの個性的なシンガー・ソング・ライターたちが活躍しました。自作の曲を演奏する歌手たちのことですが、日本だとフォークの吉田拓郎や中島みゆき、それから井上陽水などがあてはまります。世界的にはやはり2016年に歌詞でノーベル文学賞をとって話題になったアメリカのボブ・ディランが有名です。イタリアではファブリチオ・デ・アンドレがいちばん名声が大きいのですが、ほかにもたくさんの奥深い味わいの歌手たちがいます。


ロベルト・ヴェッキオーニさんはもともと古典文学畑の人で、歌手として成功してからもラテン語やギリシア語の教授としての仕事を続けたそうです。ことし出したアルバムのなかで、もうひとりのシンガーソングライター、フランチェスコ・グッチーニさんが引退していたのを引っ張り出してデュエットで歌っている曲があります。この曲はイタリアのレーシングドライバー、アレッサンドロ・ザナルディさんに捧げられているそうです。ザナルディさんは事故で両足を失ったあともBMWが特別に彼のためにつくったハンドドライブの車でドライバーとして復帰。さらに2009年にはドライバーを引退し、五輪をめざして自転車(ハンドサイクリング)の選手となり、2012年ロンドンと2016年リオのパラリンピックで連続して金メダルを獲得した不屈の英雄です。




走ることも歩くこともできないのなら、
空を飛ぶことを学ぶことにしよう。

E se non potrò correre 
e nemmeno camminare 
imparerò a volare 
imparerò a volare 




この歌のなかでザナルディさんの逸話は、「人生に対する情熱は運命の力よりも強い」'passione per la vita che è più forte del destino'ということの象徴として意図されているとヴェッキオーニさんは言います。また、ホメロスの「オデュッセイア」でよく知られる英雄オデュッセウスの伝説について書かれた、ギリシアの近代詩人コンスタンディノス・カヴァフィスの「イタカ」という詩がことばを変えて引用されているのだそうです。オデュッセウスはトロイアへの遠征の帰りに漂流し、筏を組んで故国のイタカ島へと帰還しようとして苦心惨憺します。カヴァフィスはこの古典をロマン的手法で身近な心の問題におきかえ、むしろ「もし君がイタカへ向かうなら、旅の長からんことを願え。おそろしい人食い巨人や一ツ目鬼、怒れる海神などに出会うことなどはないーもし君が想いを高くたもち、世にも稀な昂奮が君の心と体をかきたてているならば。」と書きました。



もしイタカに向かうなら
長い旅が待っているだろう
海は勇気の櫂を奪い去り、
帆は裂け、天は荒れ狂う
だが少年よ、ただ心さえあるなら
ひとり海を旅ゆくことができる
生きることが問題なのだ
第一人者になることではない
運命など知ったことか!


Se partirai per Itaca 
ti aspetta un lungo viaggio 
un mare che ti spazza via 
i remi del coraggio 
la vela che si strappa e il cielo 
in tutto il suo furore però per navigare solo 
ragazzo, basta il cuore 
qui si tratta di vivere 
non di arrivare primo 
e al diavolo il destino 




ヴェッキオーニさんによるとこの曲は70年代にイタリアで「カンツォーネ・ダウトーレ(シンガーソングライター・ソング)」と呼ばれたものを反映しているといいます。現代にはすでにこうしたものはなく、アルバム全体がこの雰囲気のなかでつくられた。単純で基本的なものであれ、あるいは精妙で洗練されたものであれ、ともかくある文化に従ってすべては書かれ、歌われた。すべてはなるべくしてなった内容だった。こうヴェッキオーニさんは語ります。




'Ti Insegnerò A Volare (Alex) '「飛ぶことを教えよう」(アレックス)
アレックスは、アレクサンドロの愛称です。





翻訳 ITALOGOS




カイロで不明のイタリア人学生、拷問遺体で発見 エジプト(AFP)

http://www.afpbb.com/articles/-/3075867
エジプトで何百人もの人が拉致・拷問に=アムネスティ(BBC)
https://www.bbc.com/japanese/36780834


オーサー一覧両足切断から15年。元F1ドライバー、ザナルディがパラリンピックで2大会連続の金メダル!
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujinohiroshi/20160915-00062195/


Ithaka - CP Cavafy - Poems -
http://www.cavafy.com/poems/content.asp?id=74

Francesco Guccini in duetto con Roberto Vecchioni: una 'canzone d'autore' ispirata ad Alex Zanardi
https://www.repubblica.it/spettacoli/musica/2018/11/06/news/roberto_vecchioni_francesco_guccini-210899896/

2018年9月15日土曜日

ナブッコ Nabucco







グリフォン(ライオンとワシの合成獣)の浮き彫り
 アケメネス朝ペルシア・ダレイオス一世時代 紀元前510年頃 ルーブル美術館





ベルディのナブッコ



 先日フィレンツェにあるバー「ナブッコ」に行ってきました。そこで生演奏している方に誘われたのですが、なかなかおもしろい場所でした。店内は小奇麗で屋外の席もあり、壁にはアーティストさんの絵が展示されていました。

 バグパイプが演奏されたのはおどろきました。生で見たのははじめてです。アイルランドの民謡「ダニー・ボーイ」をやっていました。そのほか演奏していた歌はすべて英語で、外国人のお客さんを考慮した選曲のようでした。女性の弾き語りがありシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などをやっていましたが、そのあたりの客層がやはり乗りがよかったです。



 
 「ナブッコ」は作曲家ジュゼッペ・ベルディがはじめて成功をおさめたオペラ作品の名前です。ナブッコはネブカドネザル二世のイタリアでの呼び方。新バビロニア王国の二代目の王で、紀元前6世紀の前半王位についていました。

 ネブカドネザルはユダ王国をほろぼし、前600年前後、数回にわたってユダヤ人をバビロンに強制移住させる「バビロン捕囚 Babylonian captivity」を行いました。旧約聖書を書くことになるユダヤ人の運命を大きく左右した人物だったわけです。



 英語でcaptiveといえば「囚われた」あるいは「囚人」のことですが、、イタリア語で「わるい」という言葉は同語源でcattivoカッティーヴォといいます。この言葉はラテン語のcaptivus diavoli(カプティウス・ディアウォリ)「悪魔に囚われた者」というキリスト教の表現に由来します。おもしろいですね。
 
 

 




新バビロニア王国 (前 625~539)
現在のイラク・シリア・ヨルダン・イスラエルと
シナイ半島の半ばまでのエジプトの範囲。

新バビロニアはオリエント全域を支配したアッシリア帝国
紀元前609年滅びたときに残った四王国時代(前525まで)の王国のひとつで、
その後オリエントを統一したペルシア帝国に滅ぼされました。





バビロン
図はハンムラビ王によって達成された
古バビロニア帝国 First Babylonian Empire の領土。
バビロンは空中庭園の伝説で知られ、
イラクの首都バグダードの南約90キロ、
ユーフラテス川沿岸にありました。

古バビロニアはヒッタイト帝国にほろぼされましたが、
その滅亡後オリエントを統一したアッシリア帝国をほろぼし、
新バビロニア帝国として四帝国時代に復活します。




後世に想像されたバビロンの空中庭園 
「世界の七不思議」のひとつで、諸説ありますが
一説によればネブカドネザル二世が故郷の景観を切望した
后のためにつくったといいます。






ナブッコとイタリア統一運動



 さて、ベルディによるオペラ「ナブッコ」は1842年の初演でしたが、その舞台スカラ座があるミラノは当時オーストリアの支配下にあり、観客はネブカドネザル二世に虐げられるユダヤ人に自らの運命を重ね合わせて熱狂したという言い伝えがあるそうです。


 この伝説は回顧的にさかのぼってつくられた可能性のある不確かなものであるようですが、いずれにしてもこのオペラ、なかんずく作中の合唱「行け、われらが思いよ」'Va, pensiero'は現代のイタリア人にとって思い入れの深いものになりました。


 当時オーストリア支配下にあったミラノやヴェネチアでは、「ヴェルディ万歳 'Viva Verdi'」という落書きには隠れた意味がありました。VERDIを'Vittorio Emanuele Re D'Italia'「イタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ」の頭文字として読む、イタリア国土回復・統一を祈願する愛国的な意味です。



 日本が明治維新で近代国家に生まれ変わったのは1868年ですが、イタリアの統一はその7年前の1861年になしとげられました。


 「ナブッコ」初演の6年後1848年は、フランスの「二月革命」やオーストリアの「ウィーン三月革命」、そしてそれに触発された東欧諸国の愛国運動「諸国民の春」の年として知られていますが、この年イタリアでは、北部を支配するオーストリアや、ブルボン家が支配する南部の両シチリア王国に対して独立戦争がはじまったのです。


 統一運動は第一次大戦後から続いていたのですが、この年から三次にわたるイタリア独立戦争がはじまり、第二次イタリア独立戦争により、ヴェネチアのあるヴェネト地方と、教皇領であったローマとを残して統一運動は達成され、1861年サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世がイタリア王として戴冠しました。




ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の肖像






ゆけ、われらが思いよ
Va, Pensiero
訳・italogos


ゆけ、われらが思いよ、黄金の翼もて
祖国の甘美なる大気が
穏やかにやさしく薫る
なぞえや丘のうえに憩え

ヨルダン川のほとりに、

シオンの都の崩れ落ちた塔に
挨拶を送れ・・・
ああ、いとも美しき、失われた国土よ!
ああ、いとも愛しき、されどむごき思い出よ!

行末を見通す預言者の 黄金の竪琴よ
なぜに黙したまま 柳の木に掛かっているのか
胸のうちの思い出に 再び火を灯せよ
ありし昔のことを 語り聞かせよ

あるいは エルサレムの命運にも似た
痛ましい嘆きの音を 響かせよ
あるいは 主の霊感にみちびかれた響きで
くるしみのなかに 勇気を呼び覚ませ!


Va, pensiero, sull'ali dorate;

Va, ti posa sui clivi, sui colli,
Ove olezzano tepide e molli
L'aure dolci del suolo natal!


Del Giordano le rive saluta,
Di Sionne le torri atterrate...
Oh mia patria sì bella e perduta!
Oh membranza sì cara e fatal!


Arpa d'or dei fatidici vati,
Perché muta dal salice pendi?
Le memorie nel petto riaccendi,
Ci favella del tempo che fu!


O simile di Solima ai fati
Traggi un suono di crudo lamento,
O t'ispiri il Signore un concento
Che ne infonda al patire virtù!















              



 付録・歴史覚書



チグリス・ユーフラテスの位置関係は、『左からE.T.』でおぼえられます。(『E.T. the Extra-Terrestrial 』(E.T. 地球外生命体)はスピルバーグによる1982年の映画です。)バビロンはユーフラテス(E)川両沿岸をまたいでいました。バグダード市もやはりチグリス川(T)両岸に広がっています。

新バビロニア王国は「四王国時代」全体とおなじく、紀元前7から6世紀に百年たらず存続しただけでしたが、その前身である古バビロニア王国(あるいはバビロン第一王朝)は前1900年からおよそ300年間続きました。後者がほろびてから、およそ1000年後に前者が成立したことになります。古バビロニアは「目には目を、歯には歯を」の『復讐法』で有名なハンムラビ法典をつくったハンムラビ王のとき最盛期を迎えました。

・イタリアには2つの大きな離島があります。左向きの長靴の形をしたイタリアの左がわ上方にはフランス領のコルシカ島、ナポレオンの生まれ故郷ですが、この東がわには小さなエルバ島(イタリア領)があり、これはナポレオンが1815年百日天下で返り咲くまで一年弱流刑に処されていたところです。コルシカの下に大きなサルデーニャがあります。ここの方言はイタリア語とは異なる言語だと言われています。そこから南東、長靴が蹴り飛ばそうとしている石ころがシチリア島です。

・サルデーニャ王国はイタリア統一の主軸としての役割を果たしましたが、国際的政治力を増すために、トルコに侵略したロシアに対し英仏が宣戦したクリミア戦争(1853~56)にトルコ側で参戦しました。1853年は江戸にペリー提督の黒船が来航した年です。翌年の日米和親条約にもとづき、56年には初代総領事としてハリスが来日しています。










翻訳 ITALOGOS



画像ソース

https://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/frieze-griffins
https://en.wikipedia.org/wiki/Hanging_Gardens_of_Babylon#/media/File:Hanging_Gardens_of_Babylon.jpg
http://artmeup.org/painting/view/11864

本文・翻訳: ITALOGOS

2018年2月18日日曜日

青ひげ その三・下(了)




ピノキオ」の作者カルロ・コッローディがシャルル・ペローの童話集(1695)をイタリア語訳したもの(1875)を、本邦の児童文学者楠山正雄の和訳(1950)と対置しました。意訳がされている箇所は、できるだけコッローディ版にちかくなるようになおし、語学の助けになるようにしました。









その三・下


 アンヌねえさまは、すぐ塔のてっぺんまであがって行きました。半分きちがいのようになった奥がたは、かわいそうに、しじゅう、さけびつづけていました。
「アンヌねえさま、アンヌねえさま、まだなにもこないの。」
すると、アンヌねえさまはいいました。
「日がって、ほこりが立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ。」
 そのうちに青ひげが、大きなけんをぬいて手にもって、ありったけのわれがねごえを出して、どなりたてました。

「すぐおりてこい。おりてこないと、おれのほうからあがって行くぞ。」
「もうちょっと待ってください、後生ごしょうですから。」と、奥がたはいいました。そうして、ごくひくい声で、
「アンヌねえさま、アンヌねえさま、まだなにも見えないの。」と、さけびました。
 アンヌねえさまはこたえました。
「日がって、ほこりが立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ。」
「早くおりてこい。」と、青ひげはさけびました。「おりてこないと、あがって行くぞ。」
「今まいります。」と、奥がたはこたえました。

 そうして、そのあとで、「アンヌねえさま、まだなにも見えないの。」と、さけびました。
「ああ。でも、大きな砂けむりが、こちらのほうにむかって、立っていますよ。」と、アンヌねえさまはこたえました。
「それはきっと、にいさまたちでしょう。」
「おやおや、そうではない。ひつじのむれですよ。」
「こら、おりてこないか、きさま。」と、青ひげはさけびました。
「今すぐに。」と、奥がたはいいました。そうして、そのあとで、「アンヌねえさま、アンヌねえさま、まだ、だあれもこなくって。」
「ああ、ふたり馬に乗った人がやってくるわ。けれど、まだずいぶん遠いのよ。」
「ああ、ありがたい。」と、奥がたは、うれしそうにいいました。「それこそ、にいさまたちですよ。わたし、にいさまたちに、いそいでくるように合図あいずしましょう。」




La sorella Anna salì in cima alla torre e la povera sconsolata le gridava di tanto in tanto:

"Anna, Anna, sorella mia, non vedi tu apparir nessuno?".

"Non vedo altro che il sole che fiammeggia e l'erba che verdeggia."

Intanto Barba-blu, con un gran coltellaccio in mano, gridava con quanta ne aveva ne' polmoni:

"Scendi subito! o se no, salgo io".

"Un altro minuto, per carità" rispondeva la moglie.

E di nuovo si metteva a gridare con voce soffocata:

"Anna, Anna, sorella mia, non vedi tu apparir nessuno?".

"Non vedo altro che il sole che fiammeggia e l'erba che verdeggia."

"Spicciati a scendere", urlava Barba-blu, "o se no salgo io."

"Eccomi" rispondeva sua moglie; e daccapo a gridare:

"Anna, Anna, sorella mia, non vedi tu apparir nessuno?".

"Vedo" rispose la sorella Anna "vedo un gran polverone che viene verso questa parte..."

"Sono forse i miei fratelli? "

"Ohimè no, sorella mia: è un branco di montoni."

"Insomma vuoi scendere, sì o no?", urlava Barba-blu.

"Un'altro momentino" rispondeva la moglie: e tornava a gridare:

"Anna, Anna, sorella mia, non vedi tu apparir nessuno?".

"Vedo" ella rispose "due cavalieri che vengono in qua: ma sono ancora molto lontani."

"Sia ringraziato Iddio", aggiunse un minuto dopo, "sono proprio i nostri fratelli: io faccio loro tutti i segni che posso, perché si spiccino e arrivino presto."



 語彙


'Non vedi tu '現在の語感でいうと、tuはここに置かないのがふつうです。'Non vedi...'

'Coltellaccio' というとかわいらしい感じですが、「大きな短刀」なので立派な武器です。

ne'というneiの短縮法は現在使われません。

spicciarsiは「いそぐ」という意味ですが、ナポリ方言などをのぞくと今は使われません。sbrigarsiが現在よく使われます。

daccapoは「また」という意味ですが、現在はdi nuovoといいます。da capoという分けたかたちでは「はじめから」という意味で使われています。





そのとき、青ひげは、家ごとふるえるほどの大ごえでどなりました。奥がたは、しおしお、下へおりて行きました。涙をいっぱい目にためて、かみの毛を肩にたらして、おっとの足もとにつっぷしました。
「今さらどうなるものか。」と、青ひげはあざわらいました。「はやく死ね。」
こういって、片手に、奥がたのかみの毛をつかみながら、片手で、けんをふりあげて、首をはねようとしました。おくがたは、夫のほうをふりむいて、今にもたえ入りそうな目つきで、ほんのしばらく、お祈りのため心をしずめたいので、待ってくださいと、たのみました。
 青ひげはこういって、剣をふりあげました。
「ならん、ならん。神さまにまかせてしまえ。」

 そのとたん、おもての戸に、ドンと、はげしくぶつかる音がしたので、青ひげはおもわず、ぎょっとして手をとめました。とたんに、戸があいたとおもうと、すぐ騎兵きへいがふたりはいって来て、いきなり、青ひげにむかって来ました。これは奥がたの兄弟きょうだいで、ひとりは竜騎兵りゅうきへい、ひとりは近衛騎兵このえきへいだということを、青ひげはすぐと知りました。そこで、あわてて逃げ出そうとしましたが、兄弟はもう、うしろから追いついて、青ひげが、くつぬぎの石に足をかけようとするところを、胴中どうなかをひとつきにつきさして、ころしてしまいました。
 でもそのときには、もう奥がたも気が遠くなって、夫よりももっと死んだようになっていましたから、とても立ちあがって、兄弟きょうだいたちをむかえる気力きりょくはありませんでした。
 さて、青ひげには、あとつぎの子がありませんでしたから、その財産ざいさんはのこらず、奥がたのものになりました。奥がたはそれを、ねえさまやにいさまたちに分けてあげました。アンヌねえさんには、もうずっとまえから交際していたある紳士といっしょになるための嫁入り支度を、ふたりの兄さんには、大将のしかくを手にいれるための費用をわたしました。のこりはじぶんのためにとっておいて、これいじょうなりっぱな紳士と結婚して、青ひげのところで味わった胸がさけるようなくるしみをわすれることができたのでした。


 世の夫婦がみな、そんなふうにしあわせでありますように。


 妖精たちの時代までさかのぼるこのお話からわかることは、好奇心というものは、とくにあまりふかく追いかけるときには、えてしてわざわいを運んでくるものだということです。


Intanto Barba-blu si messe a gridare così forte, che fece tremare tutta la casa. La povera donna ebbe a scendere, e tutta scapigliata e piangente andò a gettarsi ai suoi piedi:

"Sono inutili i piagnistei", disse Barba-blu, "bisogna morire".

Quindi pigliandola con una mano per i capelli, e coll'altra alzando il coltellaccio per aria, era lì lì per tagliarle la testa.

La povera donna, voltandosi verso di lui e guardandolo cogli occhi morenti, gli chiese un ultimo istante per potersi raccogliere.

"No, no!", gridò l'altro, "raccomandati subito a Dio!", e alzando il braccio...

In quel punto fu bussato così forte alla porta di casa, che Barba-blu si arrestò tutt'a un tratto; e appena aperto, si videro entrare due cavalieri i quali, sfoderata la spada, si gettarono su Barba-blu. Esso li riconobbe subito per i fratelli di sua moglie, uno dragone e l'altro moschettiere, e per mettersi in salvo, si dette a fuggire. Ma i due fratelli lo inseguirono tanto a ridosso, che lo raggiunsero prima che potesse arrivare sul portico di casa. E costì colla spada lo passarono da parte a parte e lo lasciarono morto. La povera donna era quasi più morta di suo marito, e non aveva fiato di rizzarsi per andare ad abbracciare i suoi fratelli.

E perché Barba-blu non aveva eredi, la moglie sua rimase padrona di tutti i suoi beni: dei quali, ne dette una parte in dote alla sua sorella Anna, per maritarla con un gentiluomo, col quale da tanto tempo faceva all'amore: di un'altra se ne servì per comprare il grado di capitano ai suoi fratelli: e il resto lo tenne per sé, per maritarsi con un fior di galantuomo, che le fece dimenticare tutti i crepacuori che aveva sofferto con Barba-blu.

Così per tutti gli sposi.


Da questo racconto, che risale al tempo delle fate, si potrebbe imparare che la curiosità, massime quando è spinta troppo, spesso e volentieri ci porta addosso qualche malanno.




 語彙


si messe a gridare messeは遠過去三人称単数の現在使われていない形です。いまはmiseといいます。

ebbe a scendere は「下りなくてはならなかった」の構文ですが(avere a verb.)今は使われません。英語のhave toに似ていますね。

essere lì lì perは「まさに~しようとしている」という意味で、essere sul punto di, stare perといいかえることができます。

piagnisteo/i は子供の泣き声、そこからまた「泣き言(ぐち)」の意味です。


raccogliersi  「体を折り曲げる、身をかがめる」のほかに、「心を集中させる、没頭する(in-)の意味があり、用例としてはraccogliersi in preghiera「熱心に祈る」がよく揚げられます。このばあいもそうでしょう。青髭のこたえも、「ならん、いますぐ神にゆだねてしまえ!」です。

原文仏語のse recueillir
には、もっとはっきりと、「(宗教的)瞑想をする=いのる」の意味があります。いずれにせよ基本的に仏語の場合「精神を集中させる」の意味なので、楠山氏の訳「身繕いをするあいだまってほしい」は誤りだと思われますし、それ以前にコッローディの伊語版とくいちがうので修正しました。

di ridosso(di) (~の)近くに、背後に


porticoは建築的な構造で、「円柱とそれにささえられた覆い」です。例えば米大統領官邸ホワイトハウスの前にある、ギリシア建築風の覆い部分がこれにあたります。

costìはトスカーナ方言で、現在ではトスカーナ地方のほかでは使われず、costì「そこで」costà「あそこで」の代わりにそれぞれ、lìとlàが使われます。

colla spadaのような前置詞と定冠詞の一体化したかたちはcolのほかは現在あまり使われません。一体化した形がほかの単語とおなじ綴になってまぎらわしいからであると説明されています(Corriere della Sera)。したがって現代語風にはcon la spadaです。

lo lasciarono mortoは現代風の言い方ではありません。'lo uccisero e lasciarono a terra morto'というふうになるでしょう。

・おもしろいところは、コローディ版が「夫よりももっと死んだようになっていた」というイタリア風のおおげさな表現に変えているところです。原文では「まるで夫とおなじように、死んでしまったようだった」という文章で楠山もそのように訳しています。

fare all'amoreという言い方は、50年代から60年代くらいまで使われたもので当時の映画のなかでよく使われています。婚約前の男女間の交際のことを指します。現代ではamoreggiareやflirtareが「つきあう」「いちゃつく」の意味でつかわれます。70年代ころからは、性行為のことを指すようになったそうですが、現在では代わりにfare l'amoreがその意味で使われます。

fior di galantuomo 「紳士の鑑」の意味になります。fiore di...で「最善の~」の意味です。essere nel fiore degli anni青春の盛りに

crepacuore ははげしい心痛、嘆きのことです。morire di crepacuore「悲嘆のあまり死ぬ」ansie心配、不安、terrore恐れと、このばあい言い換えられるでしょう。

・'così per tutti gli sposi' 原文にはふたつの教訓があり、第一が好奇心をいましめる教訓で、これは仏文・伊文・和文で内容が対応しています。ただしコローディ版の内容はかなり意訳的で、原文の「実例はいくらでも日毎にみられる」「ご夫人がたには失礼ながら」などのという言い回しがなく、原文にない「妖精たちの時代にさかのぼるこの物語」というせりふが入っています。楠山版は原文の最後の部分だけを訳してています。ここでは私がコローディ版を訳しました。'volentieri'はふつう「よろこんで」という意味で、ここでのように「容易に」という意味は稀です。

https://dizionari.repubblica.it/Italiano/V/volentieri.html

第ニのものはコッロディ版ではひどくみじかく要約されており、第一よりも前に書いてあります。「すべての夫婦がこのように幸福でありますように」という意味のようですが、あるいはオリジナルの挿入部分かもしれません。ペローの原文では「こんな恐ろしい夫がいたのは昔の時代のことで、現代ではどんなに嫉妬深くとも、声低く不平をもらすくらいのものです。だから髭が何色をしていようとも、夫と妻とどちらが主人かわからないくらいです」という内容になっています。






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