アッティラ王と「ニーベルンゲンの歌」
「ニーベルンゲンの歌」は名高い中世ドイツの英雄叙事詩ですが、伝説ですから登場する歴史上の人物は実際には時代が重なっていないことがあります。フン族のアッティラ王はゲルマン民族に脅威をあたえて民族大移動のきっかけになる人物なのですが、この叙事詩のなかでは東ゴート族のテオドリック大王がアッティラ王の宮廷に客人として滞在していて、アッティラの敵たちを単身その豪腕でなぎ倒す大活躍をすることになっています。ところが実際には、テオドリックの生まれた年はちょうどアッティラ王の死んだ西暦453年の翌454年なのです。
フン族はアッティラ王の死後しだいにおとろえ滅亡しました。
フンの衰亡はアッティラの死後さ(453)。
アッティラ王は死の前年(452)イタリアに侵入して荒らしますが、時のローマ教皇レオ1世の説得を受けてひきあげています。このエピソードがローマのバチカン宮殿にあるラファエロ作の有名な壁画連作のなかで描かれています。これを描かせたのは時の教皇でメディチ家出身のレオ10世で、自分自身の風貌をレオ1世として描き込ませていると言われています。剣を手にした聖ペテロと聖パウロが出現する奇跡によってアッティラがローマへの侵攻を思いとどまったという伝説が主題になっています。
ペテロとパウロはどちらもPがつく聖人ですが、聖ペテロはキリストから「天国の鍵」を与えられた初代のローマ教皇であるとカトリック教会では考えられており、この絵でもそうですが鍵を手にしている姿でよく描かれます。ローマの名高いサン・ピエトロ(聖ペトロのイタリア語)大聖堂はペテロの墓の上に建てられていると言われていおり、この壁画はサン・ピエトロ大聖堂に隣接したバチカン宮殿にある当時の教皇の居室の壁に描かれています。
「レオ1世とアッティラの会見」(1513-14) ラファエロ作
カタラウヌムの戦い
この出来事の前年(451)にあったのが、カタラウヌムの戦いです(「語らぬ有無」ではありません。ウとヌを入れ替えてください)。ゲルマン人の西ゴート族は前世紀にフン族から逃れてローマに保護を求めて移動してきており、侮蔑的な待遇に怒り反乱を起こし皇帝を殺害したり、帝国が東西に分裂してからはローマの都を荒らしたりもしましたが、このころまでにガリアからイベリア半島にかけて西ゴート王国を建国していました。そしてフン族が追ってきたので、西ローマ帝国と協力してフン族と戦います(西+西ですね)。高校世界史ではこの戦いでフン族を止めた重要な出来事となっていますが、じっさいはこの戦いの翌年にはイタリアにフンは侵入しているわけです。
絵に描かれた伝説では使徒の霊が現れてアッティラが恐れたことになっていますが、前年の決戦に敗れすでに弱っていたとはいえ、説得して追い返したということのほうが凄く感じられます。アッティラはローマへの侵攻を思いとどまりましたが、フン族によって追い立てられてやってきたゲルマン民族のいくつかはローマを荒らしました。それはアッティラがレオと会談して引き返した3年あと455年のヴァンダル族(サンダル族ではありません)と、410年の西ゴート族でした。アッティラはローマ略奪のあと西ゴート族の王アラリクスが急死したことを迷信的に恐れたのではないかとも言われているようですが、アッティラはローマ侵攻をとりやめたにもかかわらずイタリア侵入の翌年には亡くなっています。西ゴートはゲルマン民族の大移動の最初です。375年に移動を開始しますが、これは高校世界史で大事な年号になっています(皆GO!)。これはローマ帝国が東西に分裂する395年の20年前です。
ローマは錯誤(395)で分裂する。
375 西ゴート族、フン族の圧迫を逃れ南下を開始
(ゲルマン民族の大移動のはじまり)
395 ローマ帝国、東西に分裂
410 西ゴート族、南下しローマに侵入、略奪を行う
451 カタラウヌムの戦い、西ローマ、西ゴート族と協力しフン族のアッティラ王を破る
452 アッティラ、教皇レオ1世に説得されイタリアを去る
453 アッティラ、急死
455 ヴァンダル族、アフリカから北上、ローマを略奪
0 件のコメント:
コメントを投稿