2018年1月23日火曜日

青ひげ その二・上




ピノキオ」の作者カルロ・コッローディがシャルル・ペローの童話集(1695)をイタリア語訳したもの(1875)を、本邦の児童文学者楠山正雄の和訳(1950)と対置しました。意訳がされている箇所は、できるだけコッローディ版にちかくなるようになおし、語学の助けになるようにしました。









その二・上


 すると、おくがたの知りあいや、お友だちは、お使を待つまも、もどかしがって、われさきにあつまって来ました。およめ入りさきの、りっぱな住まいのようすが、どんなだか、どのくらい、みんなは見たがっていたでしょう。ただ主人がうちにいるときは、れいの青ひげがこわくて、たれも寄りつけなかったのでございます。
 みんなは、居間いま客間きゃくま、大広間から、小べや、衣裳いしょうべやと、片っぱしから見てあるきましたが、いよいよ奥ぶかく見て行くほど、だんだんりっぱにも、きれいにもなっていくようでした。
 とうとうおしまいに、いっぱい家具かぐのつまった、大きなへやに来ました。そのなかの道具どうぐやおきものは、このやしきのうちでも、一等りっぱなものでした。かべかけでも、ベッドでも、つくえや、ちいさなたくでも、頭のてっぺんから、足のつまさきまでうつる姿見すがたみでも、それはむやみにたくさんあって、むやみにぴかぴか光って、きれいなので、たれもかれも、ただもう、かんしんして、ふうと、ため息をつくだけでした。姿見すがたみのなかには、水晶すいしょうのふちのついたものもありました。銀や、金めっきをかけた銀のふちのついたものもありました。なにもかも、見たこともないほどにきれいで、おどろくべきものでした。
 お客たちは、まさかこれほどまでともおもわなかった、お友だちの運のよさに、いまさら感心したり、うらやましがったり、いつまでもはてしがありませんでしたが、ご主人の奥がたは、いくらりっぱなおへやや、かざりつけを見てあるいても、じれったいばかりで、いっこうにおもしろくも楽しくもありませんでした。それというのが、おっとが出がけにきびしくいいつけておいていった、地下室のひみつの小べやというのが、しじゅう、どうも気になって気になって、ならないからでございます。



Le vicine e le amiche non aspettarono di essere cercate, per andare dalla sposa novella, tanto si struggevano dalla voglia di vedere tutte le magnificenze del suo palazzo, non essendosi arrisicate di andarci prima, quando c'era sempre il marito, a motivo di quella barba blu, che faceva loro tanta paura. Ed eccole subito a sgonnellare per le sale, per le camere e per le gallerie, sempre di meraviglia in meraviglia. Salite di sopra, nelle stanze di guardaroba, andarono in visibilio nel vedere la bellezza e la gran quantità dei parati, dei tappeti, dei letti, delle tavole, dei tavolini da lavoro, e dei grandi specchi, dove uno si poteva mirare dalla punta dei piedi fino ai capelli, e le cui cornici, parte di cristallo e parte d'argento e d'argento dorato, erano la cosa più bella e più sorprendente che si fosse mai veduta. Esse non rifinivano dal magnificare e dall'invidiare la felicità della loro amica, la quale, invece, non si divertiva punto alla vista di tante ricchezze, tormentata, com'era, dalla gran curiosità di andare a vedere la stanzina del pian terreno.







語彙


struggersiというのは(di...に)思い焦がれる、おもいなやむ、という意味です。文語的な表現。

struggersi d'amore 愛し焦がれる struggersi in pianto 涙にくれる(la repubblicà.it)
struggersi dal dolore 悲嘆にくれる struggersi di rivedere qlcu. 再会の思い
がつのる(小学館伊和中辞典)

essendosi arrisicate di.. 「リスクを負う、あえてする」の意。  arrisicareは現在arrischiareといいます。
    risicareというトスカーナ方言もあるが、これは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
 
'Chi non risica non rosica.'『危険を冒さぬ者に儲けなし』
 
 のことわざでのみ使われる形。roscareのほうは、「1.かじる2.儲ける」。かじる、ということは「食べる」ということで、「食えるようになる」つまり「儲ける」の意に。

 さらに、rosicareは「嫉妬でいらつく」という意味のローマ方言が、ここ数年メディアを通じて使われるようになりました。ローマっ子か、テレビで時流を追っている人ならわかる表現だそうです。


sgonnellare は女性が気取って動き回ることをいい、少なくとも元々はスカートをひらつかせる動作を伴ったものが考えられていました。現在使われる例は稀です。


andare in visibilio は慣用句で、喜びや驚きで呆然とすることをいいます。やや文語的。
mirarsi allo specchio は鏡で自分をみつめることですが、現在mirareは「(銃などで)狙う」という意味で使われ、「見る」という意味では使われません。rimirareは見とれる、という意味で今も使われます。rimirarsi allo specchio といえば、「鏡にみとれる」という意味になります。

paratoはタペストリー、つづれ織りのことでarazzoともいいます。
 carta da paratiは壁紙のことです。

rifinireはトスカーナ方言で「し終える」finire と同じ意味で使われましたが、現在ふつうは「なにかを精密に仕上げる」という意味で使われます。

magnificare=lodare 「賛嘆する」という意味の文語的表現です。

veduto/aはむかしvisto(vedereの過去分詞)と互換性がありました(どちらも使えた)が、現在は使われません。vedutaは「風景」という名詞として使われます。

non~punto はトスカナ方言ですこしも~しないということです。 現在は使われません。

 non ci penso punto少しも思わない, non ne sono punto convintoぜんぜん納得しない, senza punto stupirsiちっとも驚かない, senza punto commuoversi一向に心を動かされない、など。







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